昭和49年05月18日 朝の御理解



 御理解 第64節
 「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参ってくるが、信心して得を受けて、身しのぎをするようになれ。」

 身凌ぎをするようになる。そういう信心と言う事は、ま色々に頂きましょうけれども、神様に自分が祈りを捧げるとか、御祈念をさして貰う。その事が神様に一々通うて、そしてそれが返ってくる。言うなら返事を頂く事が出来ると言う位な所までが、私は身凌ぎというか、昨夜合楽会でございましたが、私の信心がようやく小学校へ上がったばかりぐらいの信心じゃないだろうかと、ようやく平仮名片仮名が書けれるようになって、まあ少し位は文章が綴れれるくらいになった所じゃないだろうか。
 ようやく神様に片言混じりの文章を、言うなら葉書なら葉書、手紙なら手紙を出せれる所まで行っておる所じゃないだろうか。それで神様からそれに対する御返事が頂ける。まあ小学校、ようやく平仮名片仮名を覚えたぐらいの所じゃないだろうかと言うお話しを致した。そしたら皆さんがそんなら私達は幼稚園の所でしょう。まあそうだろうなと言うてお話しをした事でした。
 まあこうやって毎日通うて来るというても、丁度幼稚園の子供が雑嚢(ざつのう)を担うて、お弁当を持ってそしてお遊戯やら歌やらを、また先生から遊ばせて貰うとが楽しゅうて幼稚園通いしておる様なものじゃないだろうかと。私の信心が皆さんよりも優れておると言う事でもないけれども、まあ言うならば先生と言われるのですから、言うならば小学校にようやく上がったばかりで、ようやく片仮名平仮名が書けれる様になり、文章を綴ると言う事も片言混じりではあるけれども、その事を神様に申し上げる。
 そうすると返事が来る事もありゃ来ない事もある。「何と書いておるやら判らない」と神様がおっしゃるような程度の所でもあろうかと言う様な話をした事でしたが。皆さんどうでしょうかね。やはり身凌ぎが出来ると言う事は、自分で手紙なら手紙を書いて、どうやらこうやら文面の意味が判るような手紙が書きこなせて、そして神様へそれを真心の切手を貼って出さしてもろうたら。
 神様がそれを読んで下さり、それに対するご返事を下さると言う所が私は、身凌ぎと言う事じゃなかろうかと思うです。ですから皆さんの場合はどんなだろうか、まあ私共こそが幼稚園だと言う事になりますでしょうね「此方は参ってたずねる所がなかった」と。お互いそうして段々幼稚園から小学校へでも上がらせてもろうて今まで知らなかった、言うならば知識を身に付ける事が出来る。信心の知識が段々に付いてくる。
 それも間違いのない事。昨日の御理解の中にも頂きましたように宗教とは、宇宙のウ冠に示すという字が書いてあるように、神様が示して下さることを教えるそれが宗教だと。神様が示して下さるのではなくてです。例えばそれが人間が示しておるところの、世間一般で言うところの道徳的なことを教えるようなことであっては、何時まで経っても神様と交流するようなことは出来ませんよね。
 修養とか道徳とかとの相違は宗教と宗教でないものの相違は、宗教は神様のお心神様の教えて下さる事それを示し教えるのが宗教だと言う事。ここでは神様から私がお知らせを頂いた事を皆さんに聞いて頂く。だからここでもはっきり合楽に皆さんが通うて見えられる事が有難いと言う事はです「此方は参って訪ねる所がなかった」と仰っておられる様にです。皆さんの場合はここで神様が示して下さる事を教えて頂くと言う事。
 これだけでも大変な有難いことだと、一つ皆さん判らにゃいけん。言うならば本当の宗教を身に付けて行っておるんだということを、皆さんは感じなければいけないと思うんです。道徳的な話じゃない。言うならば例えどんなに素晴らしいそのお話であっても、そりゃ支那の思想ですかね。孔子様とか孟子様と言う様な偉い人がおられて、その偉い人の頭から出て来た所のお話ではないのです。だから宗教と道徳の相違はそこにある。それが最近では、宗教がです。
 言うなら道徳的なことになっておるような感じがする。宗教というのはある場合には、だから非常識な不道徳なと思われる様な事すらがある。けれども神様が示して下さる事なのですから。だから人は「あれは人非人だ」言うかもしれない。かも解らない「不人情だ」というかもしれない。或いは「人でなし」と言うかもしれない。神様が示しておることを行じておる場合。そして神様が言うならば、それに対するご返事をして、一々下さるようになり、身凌ぎが出来るような信心が出来て。
 おかげを頂いて初めて、はあ成程神様じゃなあと言う事に成って来るのである。常識はずれた、不道徳な様な事すらがある。人間の道ではなくて矢張り神様の道なのだから。そう言う所を判って、ここで示される所の、神様が示して下さるその事を、私は身に付けて行く稽古が言うならば、親先生任せとか神様任せと言う事だと思うです。昨日の合楽会で、合楽食堂の中村さんが発表しておられました。
 この度はせめてこうして毎日お日参りさせて頂いておるが、少しは信心の有難さが判って来たのだから、せめて各支部支部の御大祭ぐらいにはお参りさせて頂きたいもんだと念願させてもろうて、今年は久留米の支部の御大祭、福岡支部の御大祭、そして大分支部の御大祭というように、三回ともおかげでおかげを頂いたとこう言うのである。所がそういう言うなら一心発起をして、よその大祭にでもお参りさしてもらおうと言う事になったところが、その前日もう三回とも不思議に商いがなかったと言うんです。
 だから日頃教え頂いておる。はあ是が神様のお試しというのであろうかと思うようになった。お参りをしようとしたら、前の日にちゃんと旅費も頂いた、お初穂も頂いた。あとは是だけ仕入の金なら仕入の金があるけんで、あと頼むばいと言うて行けれるようにおかげを頂くというのがおかげのようであるけども、お参りさせて頂こうと思うたら、その前日と言う前日はほとんど商いがないようであった。
 ようやく旅費を頂き、ようやくお初穂を頂いて、まあ嫁がそれでも、「お母さん早ようお参りなさい、遅なりますよ」と言うて言うてくれるから、お参りをするというようなことであった。ところが、どこへお参りさせて頂いてもです。有難いお知らせを頂く。久留米でも頂いた。福岡でも頂いた。そしてまた、ここに変わったおかげが感じられるのはです。私が御大祭からお参りして帰って来るとです。帰って来ると嫁が一人で、言わば慣れない嫁がです。私がしておる時の倍ぐらい商いをしとると言う。
 前日は全然商いがないというぐらいに、まあ言うならお店が閑散としておった。そこで中村さんは、これを日頃頂く神様のお試しというものであろうかと思うて、元気を出してお参りさして頂いた。帰って来たら「お母さん、こげん商いがありましたよ」と言って、何時もの倍ぐらいちゃんと商いがあったと言う。それがしかも三回ともそうやって続いてみるとです。信心を育てて下さる。信心を判らして下さる。又は神の用を足せば氏子のようは神が足してやる。
 自分の心が神様へ神様へと向やあ、神様は氏子へ氏子へと心を向けて下さることがおぼろげながら判ったという発表をしとります。だから信心ちゃ願うたから、願う通りになってるなんてんちゅう事じゃなくて、その辺の所が大事じゃないかと思う。お参りしようちゅうことになったら、却ってお参りしにいくいような状態になった所を、そこを元気な心で押して行くということ。例えば今度綾部さん所の大分支部のおかげを頂くと、合楽の人たちばっかり三人一緒になった。
 「それであんた達は今日はおかげ頂くとじゃろ」と言ったら「さあ」ちゅうごたる。「まあ都合出来たらお参りさしてもらう」「そげな事言うちから、お参りすると思うてから、お参りする事に決めときなさい。ちゃんとお都合お繰り合わせ頂く」と言うて、その時私が申しましたことでしたが、昨日田中さんがそのことも発表しておられました。こちらが腹が決まりゃ、ちゃんとその車に乗せて下さるそれまでお繰り合わせを頂いたというのです。問題は腹なんだ。
 中村さんの、言うならばこれがお試しというのであろうかと思うて、そこを言うなら乗り越えてお参りさせて頂いたら、帰ったら言うなら昨日が売れてなかった昨日の分まで、言うならば商いがあっておった。さあそこで有難いことは、嫁が商売の有難さ、お母さんあなたがおりなさらんでも、こうやって私でも商売が出来ますよおかげを頂いて、しかもこれだけ売り上げも多く頂いておる。
 商売が楽しゅうなるだろう、面白なるだろうと思うんです。そうするとこれからは「お母さん、もう神様事の時には、私がこっちの方は承りますからどうぞ早う参って下さい」と言う事になって来るようなです。信心がしよいような雰囲気とか、おかげというのは、そういう先だと思うですね。大分の御大祭で、お祭りを頂かして貰いよったら、御心眼を頂いたのが、大きな梨があります。「三吉」という梨がありますよね。あの梨のお知らせを頂いた。と言う事はどう言う事か。
 梨と言う事は自分の思いを捨てて、自分を空しゅうしてと言う事なんです。「こりゃお参りしようち思いよったばってんから、もう商いもこげんなかったけんで、今日はお参りが出来んじゃった」と言や、一通りの筋は立つけども、それでは信心にならんのである。はあ、ここが元気出さんならん所じゃろう。ここがお試しであろうかと言う様にです。そこを乗り越えて行ったところに、家では商いがあっておった。なら例えばそこで商いがあっていなかってもです。
 御取次を頂いて、神様に心を向けて行くことであるから無駄はないと信じさして頂くことが信心なんです。私が神様にさえ向って行きゃ、家では売り上げが倍ぐらいにあっとるけんでということではなくてもです。この度は三回ともそうだった。言わばみやすう幼稚園の生徒でも判るごたるおかげを示しておられる気が致しますね。そして三回目の大分支部の大祭の時に頂いておるように、三吉の梨と言う事は、三吉とは三つの吉と書いてある。それはどう言う事かと言うと。
 「神も助かり氏子も立ち行き、金光大神をもの喜びじゃ」と仰るそれなんです。自分ということを空しゅうして、自分というものの我情我欲を捨てて、心を神様に向けるところに神様が助かって下さる。神様の立ち行きを。そのことがです。中村さん自身も嫁ご自身も信心の、神様ちゃ間違いないなという体験を頂かして頂くと言う事は、氏子もの喜びじゃと言う事になる。そういう信心をここで何時もお話を伝えておる。
 例えてああこれがお試しというのであろうかと日頃の教えが自分の心に感じたと言う事は、日頃お参りして、ただ参り拝むだけじゃそげな事気もつかんのだけれども、日頃御理解を頂いておるから、神様が示して下さる教えを何時も頂いておるから、いよいよの時には、こうするのが本当、ああするのが本当という、本当の道をたどる事が出来る。そこで教えた金光大神が、どのようにか喜びなさるか。親先生がどのようにそれを喜ぶか。取次者が喜ぶとか言う事になる。
 「神も喜び氏子も喜び金光大神もの喜びじゃ」と言われる三吉とはそう言う事だと。自分を空しゅうすると言う事。昨日の午後の奉仕をさせて頂いておる時に、昨日のいわゆるお話を致しました、宗教とはと言う事にその事を頂いた。もう何時もながら、神様の知恵に、神の英知とでも申しましょうか、もう一言で宗教とはこういうものだと言う事をはっきり教えて頂いた。それが大変有難かった。それでも昨日浪花節にとうとう三千円もの、超特別席の切符を頂いておったのにです。
 それを紛失してしまった事の惜しかったですから、本当に残念とまでは思わんけどれも、神様に三千円ものお金を無にしてしまった事をお詫びさせて頂いておりましたら、その一つの神が示す教えを頂いた、そこを通らなければ頂けない教えを頂いただけでも三千円は安いもんだと神様が。してみると皆さんがです。千円二千円、例えばなら毎日お初穂使われたところでです。まあ二千円三千円は安いものだと言う程しの教えをここでは受けておると言うことが有難いのです。
 私の道徳的な頭から出た来たのでもなからなければ、修養を積んだから、その体験を皆さんに語る訳でもない。神様が示して下さる事を、私の体験を交えて聞いて頂くのであるから、本当に信心が判りたい、本当の宗教者になりたい、という願いをかけてお参りをしてくるならば、空しく、無くする所の、言うなら時間も、言うならば金銭も、物もそれは安いことだと言う事になるです。そういう信心の所をです。
 私は「此方は参って尋ねる所がなかったけれども」と教祖様がおしゃっておられるがです。皆さんの場合は、ここにお参りをさして頂いて、言うなら少しばかりのお初穂でです。是だけの事を頂いて帰れると言う事は、有難い事だと気付かにゃいかんと思うです。そして頂いて帰るだけではない、それが中村さんじゃないけれどもです。田中さんじゃないですけれどもです。一言で腹が決まる。決まるとこういうおかげが受けられる。ああこれが日頃頂いておる教えであろうかと。
 これが日頃頂いておるお試しとはこう言う事であろうかと、そこを乗り越えて行く信心さして貰う所に、いわゆる三吉の梨のおかげが受けられておる。神も喜び氏子も喜び、金光大神も喜ぶ三つのものが、喜び合えれる所のおかげの世界というものはそこから開けておる。そういう信心を私は、繰り返しさして頂く所からです。段々身凌ぎの出来る信心が出来て来る様になると思うですね。
   どうぞ。